『 教典の御理解はなし 』




 今日の4時の御祈念に入るちょっと前でした、今度12回目のまるしょうの大会がございます、そのテーマになるものを頂きたいという事でしたから、4時の御祈念に入ります時でしたから、4時の御祈念の中でその事をお願いさせて頂きましたら、“人を祈る”という事を頂きました。 はぁ本当に合楽のまるしょうだなと、ね、人の・・・人を祈るということ、難しいようだったら、人を大切にという風にしてもいいだろうと言うて、まぁ御神米に書き下げて、下げたことでございました。 中々どうして自分の事だけでもいっぱいなのに、人の事などと言うのが、まぁ本音でございます、けれどもだんだん信心をさせて頂いて、言うならば信心の有り難さがわかり、信心の味わいが出てまいりますと、もう祈るなと言うても祈らずにはおられない、そういう心が育っていくことが私は信心だと思うんです。

 今日の西日本の、に大きな見出しで出ておりました、私はこのごろ目が悪いから、その内容を読みませんけども大きな活字の見出しだけしか見らんのです、それにどっか遠足の帰りに学校の先生がちょっとした事で生徒を殴ったという事を大きな見出しで、すぐその下にはどういう事があるかと、中学二年生の子供が、ね、先生に向かってナイフを突きつけてどうかしたと、ような事がでてる、恐ろしいような話ですよね。 先生がハチャカチャに生徒を殴ったり、今度は反対に先生に今度は生徒がナイフを突きつける、というような話がいつも新聞紙上で賑わっております、本当に人を大切にする、言わば人を祈るというような、私は信心が子供の時から慣れてきたら、教えられてきたら、それを行ずることが出けれるようになったら、素晴らしい事だなとこう思わせてもらいます。 人を祈る、人を大切にするという事、ね、それとてもやはり習うだけでは出来ません、そう本当に祈れれる私になる、そこから有り難いものが生まれて来る。

 今日わたくし、今お祭りを済ませてから下がらせて頂いて、きょういを、きょうをとって、きょう、きょういを脱ぎかけましたら、あっ、親先生今日お話はどうなさいますかて言うんです、あらほんなこつお話せんじゃったのち言うてからまた改めて着てから。
まぁそんな訳でいつも私の話は、もうその時行き当たりばったりのお話ですけれども、私の心に、言わばいつも何か有り難いものがある、その有り難いものがまぁこんな風に、
まぁ言うなら受け持ちの時間をあの、まぁお話をさせて頂く事が出来る、そしてまた次の会合の時に今日のお話をビデオでまた見せてもろうたり聞かせてもらったりするんです。
何回聞いても何回聞いてもあれが自分の話とは思われない、やっぱりあれは神様の話だなぁと、いつも思うて、もう繰り返しいただきます。 

 本当に有り難い、ね、昨日、ん~一昨日でしたか、ん~。 福山の方から団体参拝18名参拝して参りました、ほれで午後の、午前中からみえとったらしいんです、で私がいつも午後に出てくるですから、出てまいりましたら、先生、今日は大変けっこうなおかげを頂きましたと、本当に私共の信心が楽な方へ楽な方へばっかり行って、いわゆるおかげをおかげの事ばっかり申しまして合楽に通うて来るのは合楽の信心の素晴らしいという事は、もう御理解にあると受けたまわり、もう御理解を頂く信心を分からせて頂くという事が有り難いと言うて皆も誘うてお参りしてくるのにも関わらず、結局ここへ参りましてお願いをする事は、ただ商売繁盛であったり病気が治りますようにであったり、ね、そしてまたはお伺いをしたりする事ばっかりでございます。 もう今日午前中にこの前のお月次祭のお説教をビデオで見せてもらい聞かせてもらいましたら、もう本当にそこんところが分かりましたとこう言うんです。

 いやぁ、どげんな事を聞かれましたかと言うたら、丁度この前の月次祭にはその事を私話しておったんです、よもや福山の人が聞くとは思いませんもんですからね、ね、あの、赤ちゃんが生まれる前にお届けをして、お名前を頂いた、もうその嬉しさの為にすぐ電話でその、ん~福山の方でこうやってもう生まれる前からお名前を頂いたよ、こうこうと電話をかけようと思うて電話室に入ったらジャンジャン電話がかかってきておる。
ね、それで電話機を取らせて頂いたら、あの自分の家からであった、ね、おかげで娘の子が安産のおかげを頂きましたと言うのである、いやぁ今親先生にお名前頂いて電話かけようと思うておるところであったとこう言う、ね、私としてはその時に、そりゃぁ、お腹の中の赤ちゃんの名前を男やら女やら分かりませんもの、頂くという事よりも、安産のおかげを頂かせて下さいという事の方が先決じゃないか、先ではないかと私は思うたから、それを言おうと思うた途端に神様がお名前を下さった。 

 ね、それからあのすぐお名前をお書き下げて渡しましたら、もうここでお伺いをする時には子供は生まれておったわけなんです、ね、だから安産のおかげを頂くようにと言うたんでは、ちょっとやっぱこう合いませんです、ね、そんな事がまぁ帰ってからすぐ、その信者同士に伝わったわけ、やっぱ合楽の親先生はこれは、もうその生まれる前からお名前を下さったんだと、お話には聞いておったけれども、まぁ何々と言ったような話が散かったんでしょう、ね、それから4~5日してまた別な連れの方が十数名、団体参拝してきた時にはです、やっぱりそういうその、お伺い事やらが多かったんです、今度大売出しをするけん、景品は何百段つくったら良いでしょうかといったようなお伺いじゃったんです。

 ね、だからもう楽なほう、それでは信心にならんでしょうが皆さん、ね、という事を私は福山の人たちの話をしておったのを、来てから聞いてるわけです、いやぁ私いくらなんでも人間ふりつくって、あれは聞かせなさんな、いかんばい、言うならばあちらの方達の信心の程度が低いというような感じですからね、ところがその、それをまぁ聞かせておるわけ、それでまた聞いておる訳、そして分からせて頂いた事は、なるほどおかげを頂くという事じゃなくて合楽には信心を頂きに来ておるのにも関わらず、やはりおかげおかげで終止しておったんでは、合楽に通うてくる値打ちがないという事が分かった、と言っておるだけでまだどうか分からん、ね、分かるだけならすぐ分かりますもんね。

 今朝から私が朝のお食事の時に、この頃はちょいちょいお茶粥さんですから、どうもお月次祭の日だけお茶粥さんていう風に決ってるらしい、今日もお茶粥さんでした。
え~、昆布のあのダシがらを佃煮風に煮てある、ね、それからちょっと酸味のある白菜のお漬物が「  」だった、もうとにかく有り難い、それこそシトシトとふる春雨の音を聞きながら朝のお食事、ね。 もうどんなに考えても有り難い、もうそれこそ最後のしょうりの一滴まで、お茶の手前をするように綺麗に頂いて合掌しておるともう突き上げてくるような有り難さが起こってくる。 ね、どうでしょうか、して私は一緒に頂いておる人たちに申しました、ね、本当におごちそうを頂くという事はもうおいしゅう頂けるという事が、まずおごちそうだと、同時にそれに続いて健康のおかげを頂いておらなければ美味しくない、もうそれが有り難いも何も、こうあの、綺麗に茶碗をゆすいでおりますと、もう本当に有り難い、ね。

 私は真に有り難いと思う心すぐに御かげの始めと教えてありますけれども、ね、はぁもう三界の珍味、もう今日はもう腹いっぱい食べたち言うごたる事がね、有り難いというのは本当の有り難いのじゃないと思う、普通から言や、言うならばお茶粥さんに今も申しますように少し酸味のきいたような白菜の、古い白菜のお漬物ともうダシがらで、を、にあげたこぶの佃煮のような、まぁお茶粥さんですからいらんのです、だからお汁もでけんのですねお粥さんの時には。 それが、有り難うおいしゅう頂けるという事は有り難い事だと、私共の日常のいろんな生活の中にあってもです、こういう物とかこんな物とか、ね、こんな酸っぱいとか、ね、まちっとどうかしたものはと言うのではなくて、そのすべての事がその時その時で有り難いなぁと受けられる心を私は真に有り難いと言うのではなかろうか。 その真に有り難いとうその心が、おかげをキャッチするのである、ね。

 昨日おとといでしたか、秋永先生の奥さんが毎朝この頃朝の御祈念に参って見える、
今朝方から神様からこういう事を頂いたと言うて歓迎をここへ出されました。
それにはね、"合楽天国建設の神の願いをキャッチせよ"と頂いた、ね、合楽天国の神の願い、ね、皆さんが合楽に御縁を頂いておられるという事は、この合楽という教会という教会名ではない、それこそ私共がおかげを受けたというだけではなくて、私共がおかげを受けた事はそのまま神様もおかげを頂かれた事、神様と氏子とが拝み合える、神様と氏子があいよかけよでのおかげを頂いた、そういうおかげが合楽のおかげだとこう。 ね、神様と氏子とが合楽し合えれるおかげなんです、ね、そこから生みなされて来るおかげを頂くという事、合楽し合って生まれるところのおかげというものは、もうそれこそ人間の幸せの条件が足ろうてくる、ね、なるほど合楽天国である、ね。 神様はね合楽天国建設を願っておられるのです、特に合楽にご縁を頂いておる方達には、だからそういう願いが掛けられてあるんです、だからその願いに答えての信心でなからなければならんという事になります。 そこでそういう建設の願いというものがです、ね、それをキャッチするという事は頂き止めるという事は、どういう事なのか。

 先ほど梶原先生が申しておりました、私は大きな願いを持っております、ね、だからそれがどういう例えば難儀な事であろうがです、嫌なことであろうがです、ね、もうそれは私が大きな願いを立てておるその大きな願いが成就する事のための修行であると思うたら有り難いという意味のことを話しておりました。 もう合楽で稽古するならここだけを稽古したら良い訳なんです、だから、ね、合楽建設の言う合楽天国、建設の神の願い、その神の願いを聞かせてもらう、ね。 私は信心の味わいというモノはおかげを頂いて有り難いというのではなくて、そういう信心に取り組ませて頂く、言うならば信心がいよいよわからせて頂くという事の中から生まれてくる有り難い、それが信心の私は味わいだとこう思う。 ね、そこでその信心のその味わいを、今日は私、どんな事か分からなかった、それこそあの、有難うして有難うして、え~外では言うなら春雨の、その風もない中にシトシト降っておる、まぁそれが伴奏のように、私がご飯を頂いておる伴奏してくれておるように、もう有り難いのが突き上げてくるように、もうこうせずにはおられない、一滴もお粗末にするようなこととても出来ない。

 そういう時に私の信心に響いてくるのが、あ~あの、何とかのはながつを生パックか何かという、何かテレビでやっています、あれがこう流れてくるんです、あぁどういう事だろうかと思いよったら、今お話しながらほんにあんな事だったと思うて、思い出させて頂いたんだけれども、やっぱり味わいという事だと思うんです、ね。 みなさん、ね、カツを削る、ね、そしてコブのダシ、もうこれが最高の味だと言われております、私どももいよいよ真の信心をさせて頂く、言うならば合楽天国建設のための神の願いを聞かせて頂くほどしの信心をさせて頂くという事は、まずは身をけずり心をけずりするという事がいるんだという事です、ね。 身をけずらないけません、心をけずらななりません、心をけずるという事は、日に日に改まっていくという事です、身をけずるという事はです、神様の喜んで頂く御用に立たせて頂くということです、お野菜のお供えも、お米のお供えもお金のお供えも、みんな皆さんの命を削ってのこれはお供えなんです。 

 お野菜なしには生きてはいかれない、お米なしには生きてはいかれない、お金なしには尚更生きてはいかれない、ね、その生きるという事に一番密接な関係を持っておるものがご神前にお供えをされるという事は、皆の命をけずってのお供えだという事になるでしょうが、こんな尊いことはないのです。 ね、それこそ身をけずってのカツオぶしのような味わいが出てくるんです、そこから生まれてくる信心の喜び、これはまぁ与えられる喜びと言ったが良いでしょう、不思議ですけずってごらんなさい、どこから沸いてくるか分からん喜びが沸いてまいります、その喜ぶ、ね、よろこぶの、その喜びと身をけずっての味わいというものが一つになって、いよいよ神様の願いに答えまつらせて頂けれる信心を身につけていくところ、それはもう限りがないということ。

 昨日一昨日でしたかね、田主丸に大火事がございました、あの一番、田主丸の商店街のめぬきのところの八件からの、が焼けたということです。 本当に例えば今日のおしめりはもう昨日の晩からこう続いておりました、もう夕べはもう夕べならばそれこそジックリとそのしめるようなお湿りでした、これが一日違って前の日に降っておったら少しは言うならば、もうあのへんの家というのは古い二階建ての家で、それこそ焚きつけのようになって乾きに乾いておるところへの火事でしたからね、もう瞬く間に広がった。 それにかけて加えて、田主丸の真中に大きな川に水いっぱいいつもあそこに流れておるのにも関わらず、もうその時に限って水が流れてなかった、何か工事があっとったからせき止めてあった。 その為にその水が暇取った、で、たちまち八件もの家が焼けるといったような、まぁ大火事になった訳でございます、けれども考えてごらんなさい、ね、お湿りは一日早かった、本当にせき止められるなら何日か遅う後だったら、と例えば思うてみると、こんなにも神様の間違いのない、こうよしにつけ、あしにつけ、間違いない神様の働きがあのようにして起こっておるのですから、あれは田主丸町の言うならばめぐりのお取り払いであるという事がわかります、ね。 

 これはよしにつけても、あしにつけてもそういう神様の一分一厘まちがいのない、様々なことが起こってまいりますけれども、ね、それは例えば世の中を極めて下さろうとする天地の働きであるという事をです、私どもが分からせてもらう、んなら私どもの身辺に起きてくる問題でもやはりそうなんだ、神愛の現われなんだ、助けてやらずにはおかんという神様の願いなのだ、御神願が成就しておるんだ、だからお礼を申し上げなければいけないんだと、ね、そういう信心がいよいよ育っていかなければならない。 ね、合楽で私はわからせて頂くという事は、そういう事でなからにゃいけん、そして真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めと仰せられる、その真に有り難いがおかげを頂いて有り難いというのは真に有り難いのではない、それこそお茶粥さんに酸味のあるお漬物を頂きながらでも、込み上げてくるほどの有り難いというものであって、私は本当の有り難いんだと、それが真に有り難いんだ。 

 ね、自分に都合の良いことが有り難い、都合の悪い事はおかげではないように思うということは、いうならば信心をわかっていない人たちの考え方であります、そういう考え方の人たちのところにです、ね、いわゆる今日の新聞じゃないですけれども先生が生徒を殴ったり、生徒が先生にナイフを差し向けたり突きつけたりというような事が、ね、もう日々茶飯事のようにして起こっておったり行われておったりする世の中にです、信心させて頂く者が、ね、それこそ世の清涼剤のお役を勤めさせてもらう。 そういう信心をいよいよ、いうなら和賀心時代を、合楽天国建設の願いをいよいよ新たにして、ね、まずは自分の心の中から自分の一家の中から、そして人を祈る、ね、人を祈れれる信心、ね、そういう信心にお育てを頂いて成長のおかげを頂いていかなければならんと思うのです。 

 ね、世の中がすさんでまいればまいりますほど、ね、様々な難儀な問題が起こってまいります、本当に人を祈らずにはおられない、隣のことを願わずにはおられない、ね、その、これはね願えと言うて願えるものじゃないんです、願わずにはおられないその心が育っていくという事が信心であります。 ね、いよいよ信心の、それこそ福山の方達じゃないですけれども、ね、なるほどお伺いも良かろう、お願いはもちろんせにゃいけません、けれどもそれだけに、を信心と思い間違えて自分の心を削ったり身を削ったり、ね、真の喜びをめざし求めての信心でないとするならば、これはひとつ考えなおさせてもろうて、真に有り難いという心の沸いてくるような信心を、いよいよ進めて行かなければならんとおもいます、どうぞ 。